裏プロの世界で20年間無敗だった桜井章一氏が、初めて雀鬼流について記述したものです。 雀鬼流は麻雀の技術ではなく、生き方について教えています。 教育の世界に身を置く人や武道家、スポーツ選手など、桜井氏の考え方は多くの人が参考にしています。
- 知識の中には、実体験で得たものと、そうでないものがある。実体験で得たものを尊重したい。
- 外面的なことに身を任せるのではなく、自分という内面に身を任せるなら、自分という存在に確信を持つことができるはずなのだ。
- 我が道を生きるとは、われを見捨てず、われを人任せにせず、自分の内面を、心を、思いを大切にし、われを知ることにある。楽しい人生というのはそんなところにある。
- かかわりを深くしていると、楽しかったり、いいなあと思えることが沢山増えるのです。
- 雀鬼会では、もっともっと心を開け、行動を惜しむな、と教えている。そうしていかないと、いつまでたっても、本当の自分というものに気づかない。
- おもしろいこと、楽しみは、外に求めるべきものではなく、楽しみを作る人間にならなければいけない。
- 人のことをわかろう、わかろうとするのではなく、自分のほうをきれいに掃除して、無駄な要素を省いていけば、相手のことが見えてくる。
- 多くの人たちは、自分に価値を見出せないから、真の価値を見出せないから「数」に価値を見出して、「数」を追うほかなくなる。
- 相手に鳴かれるかもしれぬ、手の内に残ったどちらかの牌が当たり牌だ、というスレスレのところまでやってみないと、読めているのか、ズレているのかの見極めがつかないし、流れを自分のものとすることはできない。
- 自分である程度納得ずくで振る、という振りを「勝負振り」というんですが、納得感のある振り込みを心掛けなければ勝負運、勝負強さというものは身につかない。
- 勝とうという意識が先にきてはいけないのです。低いレベルで勝っても、それは価値のある勝利ではないのです。政治もビジネスも同様です。
- 他人を欺くことだけが、嘘をつくことではない。自分で自分に約束したことを破ることも、嘘をついたことになる。
- 「東の二局に絶対和了るんだ」「南の三局は絶対何が何でも和了るんだ」と、勝負が始まる前に、前もって決めてしまう。いい手悪い手なんて関係ない。どんな配牌でも、その一局では一歩も下がらないで和了きることです。点棒上では負けであっても、前もって決めておいた東場と南場の二回を和了れば、その勝負は勝ちなのです。こういう強い意思を育む訓練によって、オーラスという状況を迎えたときに、いとも簡単に和了れるようになってくる。
- 不真面目に生きることも良くないですし、真面目くさって生きることもよくないのです。真面目とユーモアがくっついてこそ、本当のあったかさが生まれるんです。そうすることで、理不尽なことは決して許せないといった真面目な側面とのバランスをとっているのです。
- ふんぞり返ってもいない、意気消沈してうなだれてもいない、真ん中にいて背筋を伸ばしている人は崩れない。真ん中にすっくと立っている人が一番強いということなんです。自分の手の内を全部さらけ出している人が一番強いのです。
- 麻雀は人と人との戦いですが、私は他者には惑わされません。麻雀だけを見つめていればいい。「アイツ強いからなあ」と、人を見てしまうと、麻雀との戦いではなく、人との戦いになってしまう。誰が相手であろうが、人が見ていようがいまいが、己の姿勢を崩さない心をふだんから持ち続けなければならないのです。
- ヒクソン・グレイシーの言葉「見ただけで相手をジャッジしないようにしている。目に見えるものにとらわれない、信じるものは、心に感じられたものだけだ。」
- 人生をお金の動きだけで捉えようとすることに意味がないように、勝負の行方をはっきりと決定づけるのは、点棒の動きではなく、打ち手の心の動きです。
- 自分の手牌はもちろんですが、敵の三人の表情、河(ホー)の捨て牌など、あらゆることに気をくばって、それでいてどこか一箇所に気をとられてしまってはいけない。つまり、部分的なものに目を奪われることは避けて、勝負全体を、流れを見ることが大切なのです。
- 自分のために麻雀を打つのではなく、一緒に打ってくれる三人のために打つ気持ちをまず大切にしなさい。そうすれば、潔さとか、犠打とか、思いやりとかがわかってくる。自分のためだけを考えて打っているのであれば、自分以外の人の心の動きなど見えてくるはずもない。私を捨てて公で打て。
- いいライバルがいるということは、喜ぶべきことなのです。日々自分で自分を叱咤激励することはとても困難。ですから、雀鬼会では、いいライバル作りを心掛けているのです。ただ己を向上させることだけではなく、真剣に戦いあうために、己の、そしてライバルの雀力をアップさせなければいけない。
- 二日間の戦いで、2時間くらいしか寝てないときがけっこうありました。そんなとき、大抵の人は、体のせいにしてしまう。私は逆です。「あ、チャンスだな」と思う。いわゆる不運を、与えられた手だ、テーマだと思うのです。人がリーチをかけてくると、私はうれしくなる。条件が厳しくなればなるほど、緊張感が高まって気持ちいい。相手のリーチは、川の流れの中の岩であり、障害物です。水や魚はぜんぜんそれを気にしません。岩をこわがり逃げるのは人間心理。それを水や魚になって、すき間を見つけたり、迂回するのが、流れにそうと言うことです。
- 求めるべきなのは、安住ではなく、試練なんです。試練が、人を鍛え上げてくれるんです。つねに公の精神を忘れないで、不安定や危険に飛び込んでいく姿勢を持っていないと、低いレベルからはなかなか脱し切れないんです。
育児/恋愛
- 世間の言ういい子というのは、自分自身を小さい頃から売ってしまっている子です。いい子になりなさいと洗脳されてきた子で、いいなりになりやすい人間に育ってしまっているといえませんか。すべて親のいうことを聞いているということは、親に魂を売ってるということです。
- 本当の素直というのは、良い悪いをきちんとわきまえて、悪いことは悪いと、自分の気持ちに忠実にはねつけられることです。両親のいうこと、先生のいうことを半分聞いて、半分は聞かないほうが、良い子であり、素直な子だと私は思う。堂々と、「お父さんには、こんな駄目なところがあるんだよ」といえばいい。
- 私の育児観はこうです。子供たちが小学校を終えるまでは私は子供の奴隷、ということです。中学からは立場は逆転して、私がトップになる。それも、二十歳になる間だけです。二十歳になってからは、対等の関係なんです。十分に与えてもらって来た子は、欲求不満に陥っていないので、思ったより簡単に甘えから自らを解放し、自立できるようになるものなんです。
- 子供のほうでは、十分に悪いことをやってしまったと自覚してて、相談にきている。そういうときは、私は絶対に怒りません。本人が、悪いことをやっているのにもかかわらず、悪いことをやったということに気づいていないときは、コラッと怒る。
- 愛し合うときは、じゅうぶんに愛しあって、それ以外のわかりあえない部分があっても、それはそれでいいわけです。このズレを埋めようとしてしまうからいけない。